●特集● 教育討論集会に参加して
自分の 「変容」 を振り返って
井上 恭宏 
■ はじめに
 教育討論集会のテーマは、 「教員の意識の変容」 である。 教員の意識の変容は、 それぞれの仕事の仕方や生活のありようとかかわってくる。 対峙している状況が異なれば意識も異なるだろう。 対峙している状況が同じでも、 それぞれが抱えている状況…たとえば生活の…が異なれば、 その認識も異なるだろう。 さまざまなことが複雑に絡み合い、 傾向性でさえも簡単につかめるものではない。 そうしたことをふまえながら、 今次の教育討論集会は、 なんとか教員の意識の変容をあぶり出そうと試みている。 特に、 教育行政施策と教員の意識の変容とを結びつけて考えることは重要な課題だ。 ここでは、 自分がどう変容したかを教育討論集会での議論に沿って振り返ってみたい。

■ 「子どもが大事」 をめぐって
 「子どもが大事」 という考え方がある。 私は、 「子どもが大事」 という考え方で、 この仕事をはじめたと思う。 課題集中校であった初任校では、 「生徒を切らない」 ということを至上命題として仕事をした。 私にとっての 「至上命題」 を守るために、 「逆行する」 と私が感じた動きにはことごとく反対の立場を取った。 「人権」 を楯にとって闘う 「人権派弁護士」 になぞらえて、 「人権派」 として批判されたりもした。 1980年代のことである。 いまは、 「子どもも大事だが、 親も大事」、 ときには 「子どもよりも、 親が大事」 という考え方を持てるようになった。 それは、 「〈世間〉というものが教員を大事にしないと子どもを大事にできない」 という考え方につながっている。 「子どもが大事、 大事」 と言いながら、 その実、 子どもをしばることで親も、 教員も保身をはかろうとしている。 〈世間〉というものが、 親や教員の〈失態〉をいつでも叩く準備をしているからだ。 そして、 「子どもが大事」 をめぐって親と教員が、 「子どもを大事にしていないのはあなたがたの方だ」 といった構えで対立してしまう。 「子どもが大事」 という考え方を捨てたわけではないのだけれど、 今の私には 「子どもが大事」 という言い方がしっくりこなくなってきている。 「子どもが大事」 ということばの内実が変容してきているのかもしれない。 人権ということばがいつのまにか、 従わない者を従わせるための道具としてのことばへと変容したのと同じように。

■ 「教育責任の遂行」 とは?
 教育討論集会では、 現在の学校現場で 「教育責任の遂行」 がなされているのか否か、 そして、 「教育責任の遂行」 ができていたのか、 できなくなったのか、 といった議論があった。 「教育責任の遂行」 ということばをはじめて聞いた。 中田講演では、 「教育が子どもの権利を保障しているのか否かといった教育責任の問題」 と 「教育活動についての納税者への説明が適切になされているのか否かといった説明責任の問題」 とが、 「教育責任の遂行」 ということばによって混同されているため、 「教育責任の遂行」 ということばの内実があいまいになってしまっている、 との指摘がなされた。 「教育責任の遂行」 は、 おそらく、 かつては 「教育実践」 と呼ばれるものだったのだろう。 ただし、 「教育責任の遂行」 と 「教育実践」 との間には、 若干のずれがある。 生徒にどうかかわったのか。 それを語り合うことで、 相互に批判し合い、 生徒との関わり方について点検し合っていく教員相互のみがきあい。 「生徒という人間の活動を、 できうるならば高校生活の時間を超えて、 見とどけることができているのか否か」 を点検し合うこと。 これには完成がない。 「みがきあい」 としての 「教育実践」 は、 その気があれば、 一人の生徒をめぐって終わりなくつづくだろう。 他方、 「教育責任の遂行」 は、 結果責任が問われる。 終わりのない 「みがきあい」 の方が、 何となく救われる。 たとえば、 40歳になろうとしている教え子の人生相談を受けることも一つの 「教育実践」 であり、 そこでは、 教え子に教員が教えられるという 「みがきあい」 までもが含まれてくる。 それらの 「みがきあい」 は、 現在の同僚の間に環流し、 あらたな 「教育実践」 の糧となる。 おもしろいのは 「教育実践」 の方だと私は思う。

■ 顧客主義について
 顧客主義についても議論があった。 病院で、 患者のことを 「患者さま」 と呼ぶようになっているのと同じように、 学校でも生徒のことを 「生徒さん」 と呼ぶようになっている。 1980年代、 「教育サービスを受ける教育消費者としての生徒・保護者」 という視点は大切だと考えていた。 この視点を欠けば、 教育の商品化を対象化できなくなるからだ。 しかし、 「生徒さんはお客様です」 と管理職が釘を刺す職場があるという話を聞くようになると、 「ちょっと、 まって」 という気持ちがわいてくる。 「生徒が学校を選ぶ」 といって学校宣伝を繰り広げながら、 結果として 「学校が生徒を選んでいる」 という現実。 そこには自由な教育市場の中で消費を謳歌する教育消費者としての生徒・保護者の姿はない。 とりあえず 「お客様」 あつかいしておくことしか、 彼らをなだめるすべはないということなのかもしれない。 「子どもが大事」 という私が、 いまは生徒を呼び捨てにしている。 「さんづけ」 を否定するつもりはまったくないのだけれど、 呼び捨ての方が、 消費者としての生徒というよりも、 彼らとの 「仲良しの証」 を感じることができるような気がするからだ。

■ 無痛化装置のなかでの格闘
 最後に、 職場・組織論についての議論。 多忙な職場のなかで仕事をしていると、 自分自身の 「自己家畜化」 を感じる。 家畜のように従っていれば、 ちゃんとご飯にありつける。 効率よく仕事をこなして、 指示に従い、 逆らわない。 これは、 『無痛文明論』 を著した森岡正博が言うところの 「無痛化装置」 のなかに生きることだ。 これを否定することはできないし、 現実だ。 しかし、 このことを対象化することはできる。 これを対象化することができるのが人間なのだと思えるようになってきている。 この新しい状況を対象化し、 対処していくこと。 これがおもしろい。 「人権派」 として批判されたり、 教育実践をテーマにみがきあったり…。 逃げたかったり、 面倒くさかったりしたことどもにすすんでとりくむこと。 このようなかたちで、 自分の教員としての意識が回帰することに驚いていたりもする。 そうすると、 これまで積み上げてきたことについての 「次世代への継承」 という問題が、 違った形で見えてくる。 とりあえず、 一緒にやること。 何かを教えてあげることではなく、 状況をともに対象化し、 対処していくこと。 このことの方が良いような気がする。 新しい状況には、 一人ひとりが、 自分で、 みんなと一緒に、 対処していくしかないのだから。

  (いのうえ やすひろ 教育研究所所員)
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