●特集● 教育討論集会に参加して
「閉じられた学校」 を求めて!?
滝澤 丈一
 
はじめに
 すっかり困ってしまった。 昨年の11月17日に実施された教育討論会についての原稿の締め切りがいよいよ迫ってしまった。 この討論会では、 中田康彦氏によってまことに有益な報告がなされたわけだが、 依頼された原稿のテーマは、 その講演についての質疑応答の部分で私が行った問題提起についてであった。 すなわち、 「学校は外に開くべきではない」 もしくは、 「学校は、 もう一度内に篭るべきである」 という提起について。
 締め切りに追われつつ、 この原稿に取り組んでいる今から考えると、 何とも唐突な問題提起だったなと思いつつ、 それゆえに神高教に結集して、 日ごろ、 学校の枠を越えて教育活動に取り組んでいられる方々には、 お叱りを受けるだろうなと怖れてはいる。 しかし、 一方で、 討論会から 5 ヶ月が経とうとしている、 今、 教育をめぐる情勢を考えるとこの提起は、 あながち間違っていなかったのではないかという思いも一方で強くなっている。 追われる締め切りにも困ってしまったが、 そういう意味でも困っている。 したがって、 最初にお断りをしておくが、 この拙文は、 熱心に学校の枠組みを越えて教育活動されている方々の実践を中傷するものでもなければ揶揄するものでない (あくまでも私の主観としてはだが)。 が、 結果的に、 不快な思いを抱かれてしまった方がいた場合でも、 私の言葉足らず故ということでご容赦いただければと切に願う次第である。

中田報告と 「見えてきた問題」
 さて、 多くの点で興味深かった中田報告の中でとりわけ、 私が行った問題提起について直接、 関連するのは、 次の指摘である。 すなわち、 ここ20年来、 教員が受けている上からの統制とその統制にともなう「多忙化」に対して、 私たち教員は、 大きく分けると2つの 「乗り切り戦略」 を採用しているということ。 まず、 煩雑な仕事に対して、 「流される」 ことで自己防衛を図っていくことであり、 次にそれとは、 真逆に喪失してしまったやりがいの回復・調達手段として自らが管理できる目標に向けて、 仕事を積み重ねていくことである。 さらにこのうち教員を心身ともに疲弊させるのは、 むしろこの後者の方の対応であると氏は述べられていた。
 しかしながら、 この報告があったにもかかわらず、 討論会では、 この後、 「開かれた学校をめざす活動」 つまり、 学校外の組織等と連携していくことで学校内の閉塞状況を打破しょうとする活動が肯定的に報告されたことに、 私は違和感を覚えた。 なぜなら、 まさにそのような活動こそ、 中田氏が述べていた 「喪失してしまったやりがいの回復・調達手段」 のまさに代表ではないのか。 また、 考えてみれば 「開かれた学校を目指す活動」 は、 その発信先がどうあれ、 神高教のような、 上からの統制に抵抗している勢力にとっては、 むしろ、 積極的取り組むべき活動と評価されている。 それゆえ、 これらの活動にかかわる教員の多忙化は、 特に組合においては、 見過ごされているのではないだろうかという思いも漠然とあり、 これらが先の私の問題提起につながったわけである。

私の場合
 私自身も15年ほど前、 県北地区の学校に社会福祉コースを立ち上げて、 軌道に乗せていく際に、 学校外の福祉関係者や組織と関わっていくことは、 当時からすでに 「閉塞感」 を感じ始めていた私にとって、 有意義な教育活動であるということを信じて疑わなかった。 しかし、 一方で、 必ずしも近隣から住民から暖かい目を注がれるような生徒ばかりでなかったため、 毎日のようにあった外からの苦情に無力感を覚えつつ対応にあたっていた。 もちろん、 比較する対象が乱暴であるのは承知している。 しかし、 考えてみれば、 どちらも 「外」 は 「外」 であり、 ここで導き出されたのは、 教員は好意的な 「外」 に対しては、 多忙をきわめても元気でいられるが、 批判的な 「外」 に対しては、 その逆であるというきわめて、 単純な事実である。

「外」 は批判に満ち溢れている
 さて、 現在、 教員が置かれている状況はどうなのか。 教員をとりまく 「外」 は批判に満ち満ちており、 一部は明確に 「悪意」 いってもいいかもしれない。 インターネットの普及は、 この状況に拍車をかけていることは言うまでもないだろう。 また、 多様化していく価値観の中で、 いままで良かれとやってきて、 一定の評価を得てきた教育活動が一転して、 批判の対象となる時代でもある (昨今の 「部活動」 批判の背景にもこの問題が横たわっているように思われる)。
 こんな時代に 「学校を開くこと」 は、 果たして、 現場で働く教員にとって、 リスクを越えるメリットがあるのだろうかと考えてしまう。 もちろん、 周囲を説得し、 批判を共感に変えていくダイナミズムはありうるだろう。 しかし、 学校内で山積している仕事をこなしながら、 「外」 に対して、 そのような営為をなしうる教員は稀だろう。

おわりに
 ここで、 思い切って、 一旦 (それがいつまでになるかは分からないが)、 吹きすさぶ逆風に対して、 学校を 「閉じた」 らどうかと考える。 教育の根本はシンプルな 「授受」 であると述べたのは、 常々敬愛してやまない内田樹氏であるが、 私たちが本来、 帰っていくべき場所は教室 (あるいは、 グランドや体育館) であり、 ここで教え、 教えられるというシンプルな関係にもう一度立ち立ち返るべきなのではないか。
 もちろん、 以上述べてきたことは、 理想論に違いない。 私たちは、 構造的に、 これからも逆風の中で、 「外」 と関わっていかなければならないだろう。
 しかし、 だからこそ、 どんなに客観的には、 意義のある活動だとしても、 それが、 教員本来の活動であるのだろうかという問いかけは常に意識していかなければならない。 少なくとも、 そういう時代を私たちは生きている。                
 (たきざわ じょういち 座間高校教員)
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