標準化されたデザイン

中田 正敏
 40年以上も前のことであるが、 タイプライターを買ったことがある。 打っていると、 ある文字の隣の文字を直後に打つと、 打ち込み終わったバーが戻ってくるのと、 打ったばかりのバーが交錯して絡んで動かなくなることがあった。 パソコンでは、 そういうことは考えられない。
 ところでパソコンのキーワードの配列はタイプライターの配列を踏襲している。 ローマ字打ちをする時のホーム列の上の左手で処理するポジションの文字を代表させて 「QWERTY」 型キーボードというそうだ。 タイプを打つ人の打鍵速度を落とすことによって、 キーが絡まってしまうという問題を解決した結果の、 「効率的な」 配列である。 現在のパソコンのシステムでは、 すでにそうした問題はなくなっているが、 なぜか使い続けられている。
 J.Werchはこうした事例について、 「文化的道具は目下そのような行為を行っている行為者が自覚している必要以外の諸力に対応してつくり出されてきている」 と述べている。 使い続ける必然性がなくなっても、 標準化されたデザインを使い続けることがある。

 2013年、 DSMの第 5 版が出版された。 DSMとはDiagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder:精神疾患の診断基準マニュアル) である。 1952年版、 1968年版、 1980年版、 1994年版があり、 この間、 アメリカ精神医学会の会員と精神疾患の数は増大し続けてきた。 診断される人の数も激増している。
 特別支援教育へ転換に伴って、 新たな対象として登場した知的遅れのない発達障害は、 こうした診断基準マニュアルを基盤として、 日本でも様々な社会的な事象と絡められる形で着目されてきた。
 1994年版の編集責任者であったアンリ・フランセという精神医学者がいて、 自分自身が慎重に編集したはずの 「DSMW」 が要因のひとつとなり、 図らずも予期しない三つの流行診断があったことについて最近の著作の中で言及している。 注意欠陥/多動性障害、 自閉症、 成人の双極性障害である。 医療問題、 教育問題などの様々な背景の中で、 こうしたことが起こった。 本来診断されるべき人もいるのだが、 その対象ではないはずの人たちもそうした診断をうけることになっていて、 そうした処方を受け服薬などをしているという深刻な事実がある。 フランセは、 ADHDについては、 「症状が非常に重く、 切迫している、 典型的な現れ方をしている場合だけにすべきで、 症状が軽いかはっきりしていない場合は、 手を出さずにしばらくは注意深く見守るのが最善である」 としている。 こうした見守りを重視した 「段階的診断」 を実施するべきであり、 診断面接については、 「患者との共同作業によって正確な診断がもたらされる」 として 「関係性の構築が第一歩」 であり、 「共同作業の結果としての診断」 の実施という視点を強調している。
 基準マニュアルの使いこなし方について関係性の中で考察をする重要性を強調していることに着目したい。 標準化されたものは、 社会的関係性の中で意図せざる結果を生み出すこともある。 だから、 関係性の中で慎重にそれを適用するべきである。

 ところで、 教育、 福祉、 保健の領域では、 クライエントを対象とする仕事をしている。 そこでの仕事は合理化されたり、 形式化されたりするには、 あまりにも複雑で不確かなである。 それらの組織では特有の 2 つのビューロクラシーが構成されていて、 標準化されたデザインによって危機に瀕しているのではないか。

 教育論と組織論の学際で研究を進めているT. M. Skrticが、 インクルージョンという考え方が出てくる以前の改革に関して、 このことに言及している。 そのあらましをまとめると以下のようになる。
 人を相手とする世界の仕事はかなり複雑である。 そこでは 「プロフェッショナル・ビューロクラシー」 が支配している。 専門家たちはクライエントに対して圧倒的で客観的で確かな知識をもっており、 クライエントに対して正しく判断し、 確かな力を授ける。 そこでは、 プロフェッショナリゼーション (専門分化) を通して、 つまり専門性を高める教育を通して、 スペシャリストとしての複雑な仕事に対応できるように知識・技能を習得している。 こうした知識技能は、 一定程度であるが、 標準化・規格化されている。 この領域でも、 特有な標準化されたデザインがある。
 そして、 これらの領域での専門家のあいだの関係性であるが、 仕事で必要な 「手際の良さや方略的な資源」 を共有化しているのであるが、 相互依存は通常は必要最低限であり、 それぞれのクライエントにほぼ単独で対応する形で仕事をしている。

 同じビューロクラシーでも 「マシン・ビューロクラシー」 というのもある。 これは簡単な仕事に応じたビューロクラシーである。 そこでは、 仕事は一連のルーティンに還元できるようなできるものであり、 作業分析ができる。 標準化、 合理化、 形式化ができる。 つまり、 仕事は手順として詳しく分析できるもととして考えられており、 それはあらかじめ詳しく規定することによって、 ルール化され、 あるいは、 マニュアル化されることが可能であり、 仕事をする人はそれに従って効率的な仕事ができる。

 インクルージョンなどの教育改革について、 支援のプロセスなど個別にかなり複雑な仕事となっていることは、 実際のプロセスをよく考えてみれば明確である。 しかし、 教育改革の中には、 「マシン・ビューロクラシー」 の論理を 「プロフェッショナル・ビューロクラシー」 の構造の組織に導入する手法を採用しているものがある。 つまり、 この複雑な仕事である仕事を標準化し、 合理化し、 形式化できるものとして誤認して進められることがある。 それは、 教職員の省察や思慮分別、 つまり自らの仕事を振り返り、 自分の裁量で決断する力を削ぎ落とすことにつながる。

  「マシン・ビューロクラシー」 の論理では、 学校は標準化し、 合理化したものを取り入れることによって改革が進むことが想定される。 しかし、 この方向で改革が進むことは実際には難しい。 その改革の行き詰まりに対して、 「マシン・ビューロクラシー」 はさらに標準化したものを要求する。 そういう循環が起こる。
 こうした循環の行き着く先では、 教職員の個々の仕事のスタイルはもちろん、 ゆっくりとして学習者やすばやい学習者などの個人的なニーズも、 学校組織が 「整然としており、 きちんとしていること」 に追従せざるを得なくなる。 標準化されたデザインが最優先される。

 以上が、 T. M. Skrticの議論である。
 困難を抱えた生徒たちについて、 生徒のニーズに応じた支援を生徒と共同で構成するという複雑な仕事が成功するためには、 標準化された仕事のやり方のみでは限界がある。 というより、 それは一定程度必要な部分があるとしても、 多くの場合はむしろ障壁となる。
 ビューロクラシーがあるところ必ず標準化がある。 標準化されたデザインは合理化路線、 標準化路線の行き着くところでほぼ完璧に近いものとなるだろう。 それらは、 説明しやすいものであり、 フローチャートなどで 「説得性」 を持って説明される。
 こうした路線の手法の限界は、 実際の支援の実践の中から、 つまり生徒と共に支援を共同構成する実践の中で把握される。 標準化されたデザインを意図せざる結果として使っているのではないか、 という認識に立ち、 その都度の個別の場面から個々の支援のデザインを創りだす手法を編み出せるような組織づくりが必要なのである。
 おそらく学校が 「プロフェッショナル・ビューロクラシー」 の構造をとり、 標準化を志向する組織から一定程度の距離をとらない限り、 どうしても 「マシン・ビューロクラシー」 路線に巻き込まれるのではないか。


 (なかた まさとし 教育研究所代表)
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